「地域に密着した音楽文化の創造」をミッションに掲げ、地元民からは「神奈川フィル」「神奈フィル」として親しまれている、神奈川フィルハーモニー管弦楽団。音楽教育にも積極的で、市内の小学生を招待する「相模原市音楽鑑賞会」を長年行ってきました。
この音楽会で初めてオーケストラに触れ、その後ホルン奏者となって神奈川フィルハーモニー管弦楽団に入団したのが、今回お話を伺ったホルン奏者の熊井優さんです。相模原市出身、在住で、相模原市シティセールスサポーターとして、街のピーアールにも尽力しています。そんな、熊井さんが守りたい相模原の魅力や音楽との出会い、今後の活動について語ってくれました。
人生の相棒となるホルンとの出会い
― 初めて聴いたオーケストラで活躍されているとのこと、とてもドラマチックなエピソードですね。
「相模原市音楽鑑賞会」以前から音楽には興味があったのでしょうか?
相模原市に移り住む以前、幼少期にはイギリス・ケンブリッジで暮らしていました。街のいたるところに教会があり、聖歌隊の歌声が聴こえてくるような環境だったので、自分にとって音楽は身近で、日常にあるものでした。当時は、家族で聖歌隊を聴きに行くこともあり、それが子どもながらに幸せな時間で。その後、日本に帰国してからもピアノを習い、ファミリー合唱団に参加し、音楽と触れ合ってきました。そんな中、小学5年生になったときに「相模原市音楽鑑賞会」が催され、オーケストラの演奏を初めて聴きました。ホルンを見たり聴いたりしたのも、この時が初めてだったと思います。
― オーケストラと同時に、ホルンとも出会った。
それが、ホルンを始めたきっかけになったのでしょうか?
ホルンを始めたのは中学生になって、吹奏楽部に入ってからです。数ある楽器の中からホルンを選んだのは、男子の先輩がいたことと、ホルンパートの雰囲気が良く、先輩たちが優しかったからです。最初の2カ月は思うように音が出ずやめたくてしょうがなかったのですが、初めての夏の大会に出て、人前で演奏する楽しさに気付き、「やっぱり続けよう!」と。その後、進学した東海大学付属相模高等学校は、「この学校で吹奏楽をやりたい」と選んだ場所です。吹奏楽やホルンに打ち込んでいく自分の姿を見ていたからか、高校卒業後の進路を「音楽大学に進みたい」と両親に相談した時は、すんなりと受け入れてくれましたね。音楽大学に進み、奏者を目指すようになりました。
― 音楽大学卒業後はどのような活動をされてきたのでしょうか?
しばらくフリーの音楽家として、全国各地の楽団へ客演として参加しながら、楽団のオーディションを受けたり、ドイツへ短期留学をしたりしていました。それが4年ほど続き、兵庫芸術文化センター管弦楽団に所属することに。ここは任期が最長3年と決まっていて、その後活動するオーケストラを見つけるため、団員としての活動と並行しながら国内外の楽団のオーディションに挑んでいました。ちょうどマカオのオーケストラに内定したときに、神奈川フィルで欠員が出ていることを聞いたんです。地元の良さを改めて感じていたこともあり、契約団員としてではありましたが、神奈川フィルで頑張ろうと決めました。それが2014年のことで、その後、改めてオーディションを受け、60倍の中から選んでもらい、2016年に正団員になりました。今は、地元の学校の吹奏楽部へ教えに行くこともあります。
導かれるように帰ってきた、ふるさとの相模原
― 神奈川フィルへの入団は、導かれるようなものがあると感じました。
地元・相模原市との関わりについて教えてください。
相模原市に住み始めたのは、小学4年生の時から。小中高と地元の学校に通い、大学は東京都練馬区にあっため、自宅から通学していました。初めて長く相模原を離れたのは、兵庫芸術文化センター管弦楽団に所属していた時。職場のある西宮市や住んでいた宝塚市はとても良い場所でしたが、初めて“ふるさと”というものを意識するきっかけになりました。また、相模原の居心地の良さも再認識しましたね。
2009年から相模原市シティセールスサポーターズに所属していたので、相模原の街についてはよく知っていました。活動を通して改めて知ることもありましたが、自分でも「相模原ってどんな街なんだろう」と考えたり、図書館で郷土史を調べたりしていました。知らない人も多いのですが、地元の図書館には郷土史の資料があるので、ぜひ見てもらいたいですね。
[撮影:藤本史昭]
― 相模原市シティセールスサポーターズはどんな団体でしょうか?
また、活動内容についても教えてください。
元々は、政令指定都市移行後の知名度アップを狙い、組織されました。当初は、スポーツ選手や大学生、相模原商工会議所の若手メンバーなど、私を入れて8名の市民が所属しておりました。現在は16名のサポーターがいて、その中には私も応援している地元サッカーチーム「SC相模原」のマスコットキャラクター・ガミティもいます。相模原のピーアールが主な活動で、チラシや冊子を作ったり、公募したシティセールスコピーの中から「潤水都市 さがみはら」や、現在使われているロゴマークを選んだりしています。
個人的には、兵庫時代や県外へ公演に行った時に出会った人へ相模原市シティセールスサポーターとしての名刺で挨拶をすることを意識してやっています。政令指定都市なのに相模原を知らない人も多く、「どこにあるの?」「どんな街?」などと聞かれるんです。そうすると会話のきっかけになるし、相模原を知ってもらうチャンスにもなります。興味を持ってもらえることが多くて、直接話して伝えることのパワーを感じています。
相模原に住む子どもたちが
これからも住みたい街でありたい
― 熊井さんは、相模原のどんなところに魅力を感じますか?
まず、人と人との距離感がちょうど良い。住んでいて子どもやご高齢の方を大切にしよう、という気持ちが住民に根付いていると感じます。また、保存されている雑木林などの緑地があり、緑が多いところも魅力です。自然と共存することは、人の心を保つために大切なことだと考えているので、人が住む場所には緑が欠かせません。そして、いろいろなことが“それなり”なところが、住みやすいポイントです。例えば、交通の便や買い物のしやすさなどの暮らしやすさ。都会からの距離もちょうどよく、自然もある。そんな魅力があるにも関わらず、あまり外にアピールしないんです。控えめというか…、それが相模原の課題かなと思います。
― これから、相模原とどんな関わりをしていきたいですか?
相模原で生まれ育った子どもたちが進学や就職で他の街に移り住んでも、大人になったら戻ってきてほしいと思っていて。私がそうであったように外に出て、他の街と比べることで改めて良さに気がつくこともあると思うんです。その時、「戻ってきたい」「相模原に住みたい」と思ってもらえるような街で相模原がいられるようにすることが、相模原に住む大人の使命というか、やるべきこと。私自身も何かできたらなと思っています。
― 「JIMOTTO」とコラボレーションできそうなことはありますか?
相模原に住んでいる人でも、相模原についてあまりよく知らないという人がいるので、“相模原の良さ”を一緒に伝えていけそうだなと思います。演奏することができるので、イベントなどでコラボレーションすれば、神奈川フィルのファンが来て相模原に興味を持ったり、逆に相模原の人がオーケストラやクラシックに興味を持つきっかけになるかもしれないですね。
[撮影:藤本史昭]